アートガーデンの経緯

 大石輝一(おおいし てるかず) 洋画家 

1894年(明治27年)-1972年(昭和47年)大阪市に生まれ、西宮市に没す。

15歳にして、洋画家を志す。若き日の佐藤春夫と「狂画人ゴッホ 我憐れむ」などの詩画合作を残す。東京の本郷洋画研究所に学ぶも、まもなくして、関東大震災に遭遇、29歳で帰阪。

大阪・神戸などで作品展を開きつつ、1934年西宮市夙川にアトリエを兼ねる茶房「ラ・パボーニ」を開店。同店は野坂昭如「火垂るの墓」の一節に実名で登場する。若き日の遠藤周作、野坂昭如、小松左京らも集う文化サロンとなった。後年放浪画家山下清も度々訪れた。

1954年 「パボーニ会」の結成から画家の枠を超えた新展開を迎え、西宮に複製名画美術館を建設することを掲げ、柳宗悦らの進める民芸運動の一端を担い、伝統文化を探る活動を始めた。

美術館の建設予定地として、兵庫県三田市淡路開拓村の小高い丘に、広大な土地を入手することとなり、ゴッホ碑に始まり、柳宗悦、ブスケ神父(夙川教会)、ロマン・ロラン、武者小路実篤らを顕彰する詩碑、アポロ11号宇宙船月面着陸の壁画が次々に建立された。1962年設立記念式典には知事や三田市長、神戸駐在オランダ総領事らが集まった。

大石は、アートガーデン(芸術の園)について「アートガーデンは芸術的環境を創り、芸術心を養うに適する場、本来の人間生活を求める人々に役立つもの、(中略)複製名画美術館を主体と致しましたことは、架空の八百萬の神々の幻想ではなく、世紀に実在した芸術家の思想、理想、趣味その表現、またロマンのその変貌を知ってもらい、現在から将来の生活の虹のかけ橋を如何にすべきか、を理解するのに最も役立つもの(後略)」と述べている。

大石の亡くなった後、50年余、途中、社会福祉法人 はんしん自立の家 による「三田ユニバーサルビレッジ」などの活動があったが、その後、アートガーデンは竹が繁茂し、もとの豊な里山の面影がなくなりつつある。かつて「ゴッホの丘」と呼ばれたこの地を、大石の志に学び、再び人々の創造と憩いの場になることを願い、里山林再生を進めている。

ゴッホの碑

ロマンロランの碑
大石輝一とロマンロラン夫人(Casa La PAVONI 提供)


出典:

知る人ぞ知る西宮夙川で大石輝一が開いたカフェサロンを受け継いだ隠れ家気分のカフェ&パブ Casa La PAVONI
大阪北区堂島 http://www.pavoni.jp/concept.html

「モダニズムを突き抜けた画家 - 大石輝一」   政成一行

「ひと萌ゆる 大石輝一」 神戸新聞 2001年

「PAVONI」復刻版 大石画伯のことば④







コメント

このブログの人気の投稿

竹 1m切りには適切な時期がある の科学的根拠